芸人時代

【銀座七丁目劇場も閉館】【吉本】渋谷公園通り劇場閉館後④

ことりです。44歳。2019年7月1日よりフリーランスとして活動中。

銀座の劇場も閉館となって

1999年には「銀座七丁目劇場」も閉館となり(渋谷公園通り劇場は1998年に閉館)東京吉本の劇場が一つも無くなってしまいました。当時の東京吉本の若手芸人たちはホームグラウンドを失うこととなり、2ヶ月に1度くらい「フジタヴァンテ」という代々木のイベントスペースで芸人100組以上が1組1分から2分のネタをするというのが、ほぼ唯一のネタを披露する機会となっていました。出演する芸人はチケットを買い取り、それを知り合いなどに売って見に来てもらう、その代金を出演する際に吉本の社員に渡す(売れ残った分のチケット代は自腹)というシステムでした。

劇団を続けていく中で

渋谷公園通り劇場に出演していた芸人達はユニットというか劇団を結成して芝居を定期的に行っていました(【チケットを手売りする日々】渋谷公園通り劇場閉館後②参照)。チケ売りと称し、週に3日4日は渋谷に来て道行く人に声を掛けてチケットを売っていました。センター街、スペイン坂、公園通りなどを通ると今でも“この辺でチケ売りしてたな”と思い出すくらい、何度もその辺りをうろうろして「僕ら吉本で芸人やってるんですけど」「お笑いとか興味ないですか?」とか言いながらチラシを配って声を掛けて、そうやって何とかお客さんを集めて無名の芸人達としては異例の数の集客(詳しい数は失念しましたが)となっていました。

継続して行くことの大変さ

芝居をやってお客さんをたくさん集めそれで実績を作ることによって道が開けるという部分を信じてやっていたのですが、単純に毎回チケットを売ってお客さんを集めなければならない、知り合いに毎回来てもらうのは申し訳無いので新規で来てくれる人を増やさないといけない、というプレッシャーと、そのために行うチケ売りの大変さとしんどさが徐々にのしかかって来ていました。そして公演を重ねていくうちに芸人それぞれの考えもばらつきが出てきている(と私には感じられた)部分もあったり、またチケットを頑張って売らなくても出番がある芸人をチケットをたくさん売っても出番が少ない私のような芸人がやっかんだりと、継続して行く中でひずみが生じてきていた部分もあったと私は感じています。

出番は少なくても稽古には参加

私の出番はあってもほんの少しで、正直何回かある稽古のうち自分の絡むシーンは基本1回2回でしたが劇団の裏方の役割も兼ねてたため毎回稽古には参加していました。稽古中手持ち無沙汰で路上ライブ(【毎週、代々木公園で路上ライブ】渋谷公園通り劇場閉館後③参照)のネタを考えたりして時間を過ごしつつも、上記のように僻みやっかみも含めストレスが溜まって稽古場にいながらマイナスな雰囲気を醸し出していたのは、当時は自覚はありませんでしたが間違い無いと思います。おそらくそれを感じていた周りの芸人からは「ここ(劇団)にいてもお前は得しないから、辞めてピン芸で勝負した方がいいんじゃないか」とか「思い切って作家(構成作家/放送作家)になったら」などと言われたりもしましたが、それをすんなりと受け入れられない自分がいました。

数少ないネタのライブでは

2ヶ月に1度くらい行われていた東京の若手のライブは、お客さんの投票で順位を決めるシステムでした。劇団の活動をしていることによってある程度認知されてる有利さもあったかと思いますが、私は毎回ではありませんが何度かお客さん投票で上位になることが出来ました。ロバート、インパルス、森三中という東京NSC4期生含め100組以上が1,2分のネタを披露する中で最高で2位になったこともありました。初舞台の頃のスベりっぷり、お客さんへの受け入れられなさを思えば随分と進歩があったかと思いつつも・・・。

4分,5分のネタが・・・

100組以上のうちお客さん投票の上記確か8組が選抜されてのライブがあり、その時には4分5分のネタを披露することが出来ました。確か2回か3回はこの上位8組に残ってネタをする機会を得たのですが、私は1分2分のネタでは受けを取ることが出来ても、この4分5分になるとうまく行かず、自分の力不足を感じていました。そんな芸人になって3年目4年目、1999年から2000年頃の話から次回へと続きます。