芸人時代

早稲田大学在籍中に芸人として初舞台【吉本興業】1997年3月

ことりです。構成作家・脚本・イベント制作を生業としております。
1997年3月、当時渋谷にあった吉本の劇場「渋谷公園通り劇場」のネタ見せに合格した私は、ライブに出演できることになりました。
ことりのプロフィール/経歴はこちら

初舞台

チケット代は500円でライブのタイトルは「渋谷新人計画スラッシュパイル」でした。

芸名

ネタ見せに合格した後に、吉本の社員の方と「芸名をどうする?」という話になりました。特に深く考えていなかった私は、なんとなく本名で舞台に立つつもりでいました。ですが、その社員さんがその場で私の芸名を考え始めたので、委ねることにしました。いくつか候補が出た後、私が早稲田の学生だから(【早稲田での獲得単位はわずか8単位】芸人を夢見た経緯その⑤参照)という理由で「大学」「大学生」「大学院」・・・「木村大学院」にしよう!と言われ、“大学院には行ってませんよ”とかツッコミながらも、初舞台は「木村大学院」という芸名で出演することになりました。

リハーサル

本番は夜でしたが、リハーサルがあったので夕方に劇場に入ります。リハーサルと言っても本番通りネタをやるわけではなく、段取りやネタのキッカケ等を確認するだけのもの。例えば漫才コンビであれば「漫才です。最後ありがとうございました終わりです。」くらいで終わるものです。あくまで舞台監督や音響さん用のもので、ネタの中身に関してはみんな本番まで手の内を見せないみたいな雰囲気がありました。

自分の出番が近づく・・・

開場時間となりお客さんが客席に入ってきて、徐々に自分が舞台に立つんだと実感し、緊張が増していきます。各コンビがそれぞれネタを確認していたりしている中、私もネタの練習を二度三度と繰り返します。ネタは先日のネタ見せで合格した「自分が故障した男(と思い込む男)で“取扱説明書”を読みあげながら、どうやって直そうかと模索したり、製造主の母親に電話したりする」というネタ(【ネタ見せ】芸人を夢見た経緯その⑦(吉本の渋谷公園通り劇場へ)参照)です。フワフワした気分で、落ち着かない時間を過ごしました。

出番がやってきて・・・

そして遂に自分の出番がやってきます。前のコンビのネタが終わり照明が暗転。出囃子が流れる中、舞台に小道具をセッティングして板付き(ネタが始まる時点で演者が舞台上にいること)。明転し、いよいよネタを始めます。上記のように基本的に一人の世界に入り込んで呟くようなネタで、あまり客席の方を見て雰囲気を伺う形では無いのですが、それでも肌で感じます。狙ったところで笑いは起きず・・・。完全に「スベってる」状態です。

地獄の4分間

笑いはポツリポツリと起きる程度で、基本的にシーンとした客席の雰囲気。今思い出しても地獄です。冷や汗が出てきそうです。反応のほとんど無い中、4分ほどのネタをやりきって舞台からハケました。その後確か数組のコンビ(あるいはピン芸人)と共に再び舞台に出て、MCの方と自己紹介的なトークをしたはずですが、どんなことを話したかは覚えておりません。

ライブが終わり・・・

ライブが終わり楽屋で構成作家の方からのダメ出し等があった後、お客さんの投票結果が発表されました。客席にアンケートが配られていて、それぞれのコンビ(あるいはピン芸人)に面白いと思ったら○、普通なら△、面白くなかったら×を付けるというシステムです。○を2点、△を1点、×を0で計算し、それぞれ平均何点だったかが順位と共に張り出されました

投票結果

投票結果、1位は当時劇場でボランティアスタッフとしてもぎりをしたりしながら公園通り劇場の舞台で活動されてた「ガレッジセール」のお二人、2位が同じネタ見せに参加し、この日私と同じく初舞台だった「カリカ」上位は平均1.7とか1.8の中、「木村大学院」は・・・最下位。お客さんの評価は確か平均0.2位だったと記憶しております。

アンケートに書かれた言葉

アンケートにはそれぞれのコンビ、芸人に対する感想コメントも書かれていました。点数が低いということは当然好意的なものは少なく批判的なものが多いわけです。20年以上経った今でも覚えているのは「生理的に無理」という“いや、それ言われたらどうしようもない!”コメント。「今日痴漢された人に似てた、ゴメン」という“別人です。最後に謝られたところで!”なコメントなどです。そのくらい私のネタ、そして私のキャラクターは受け入れられませんでした。初舞台に立ったものの芸人生活は前途多難を思わせる、まさに「滑り出し」となりました。次回へ続きます。

 

じゃらん特集一覧