学生時代浪人時代

【初めてのネタ見せ】【吉本興業】芸人を夢見た経緯その⑦

ことりです。構成作家・脚本・イベント制作を生業としております。
私、ことりはかつて吉本興業で4年少々芸人やっておりました。「芸人」という仕事を意識して夢見るようになった経緯の7回目、ようやく劇場でのネタ見せに参加する話になります。
ことりのプロフィール/経歴はこちら

ネタ見せに参加するため劇場へ

1997年2月某日。大学時代にやったピンネタ【早稲田での獲得単位はわずか8単位】芸人を夢見た経緯その⑤参照)を練り直して、ほぼ寝ずに渋谷公園通り劇場でのネタ見せに向かいました。集合時間の少し前に劇場に到着するとロビーに私と同様ネタ見せに来たと思われる何組かのコンビ、あるいはピン芸人がいました。そして時間になり全員客席に移動しネタ見せに関する説明と順番が発表されました。

ネタ見せのシステム

その時のネタ見せのシステムは一組ずつネタを披露し、そのあと審査員との質疑応答とダメ出し。そこで合格すればいきなり2月にあるライブに出演することが出来るというものでした。またこの日のうちであれば何度でもダメ出しされた部分を直して改めてネタを見てもらうことが出来ました。自分の順番直前までロビーでネタの確認と練習を繰り返し、ついに私の順番が来ました。

披露した私のネタは

その時の私のネタは、「自分が故障した男(と思い込む男)で“取扱説明書”を読みあげながら、どうやって直そうかと模索したり、製造主の母親に電話したりする」という、なんともシュールで今思えば相当な演技力が必要とされるネタでした。21歳の「自分は一番オモロイ」と思い込んでいた私は自信を持ってネタを審査員に披露しました。

質疑応答

ネタを終えて、履歴書を見ながら審査員が質問をして来ます。審査員は吉本の社員と構成作家でした。そこで一応アピールポイントだと思って自分が「京大を蹴って早稲田に入学した(→【京大合格を蹴り】上京し早稲田へ。芸人を夢見た経緯その④参照)」「今も早稲田の学生だが、大学には行ってない(→【早稲田での獲得単位はわずか8単位】芸人を夢見た経緯その⑤参照」ことなどを伝えました。あとは憧れる芸人を聞かれて「ダウンタウン」と後は「島田紳助」「上岡龍太郎」という名前を挙げて、当時の若手にはあまり憧れている芸人はいないという旨を伝えた記憶があります。その後ネタに関してダメ出しがあり私の順番は終了しました。

ネタ見せ合格者発表

確か全部で20組ほどのネタ見せが終了して、全員再び客席に集まり合格者が発表されました。結果・・・私の名前が呼ばれることがありませんでした。その日のうちであればネタを見てもらえるということで、再びロビーでダメ出しされた点を修正してネタを作り直し、その日2回目のネタ披露となりました。審査員からは「今回は不合格だけど、ネタ自体はいいので、ダメ出しした点を踏まえ再度修正して来月のネタ見せに来てください」と言われ、翌月出直すことになりました。

1ヶ月後再度のネタ見せ

約1ヶ月後の3月某日。2月に指摘された箇所を修正してブラッシュアップしたネタを引っさげて私にとっては二回目のネタ見せに参加しました。システムは2月と同じで自分の順番が来たらネタを披露して、質疑応答とダメ出しでした。2月の時は緊張と焦りとで全然周りを見る余裕がありませんでしたが、この日は少し余裕があり、自分の順番を待つ間に他のコンビのネタを見たりして時間を潰しました。そして自分の順番が来てネタを披露しました。客席で見ていたネタ見せ参加者から少し笑いが起き、ある程度手応えを感じてネタ見せを終えました。二度目なので質疑応答はあっさり終わり、結果が発表されるのを待ちました。

結果発表、遂に・・・

2月の時と同様に20組ほどのネタ見せが終了して、全員客席に集まり合格者が発表されました。結果は・・・合格でした。3月中にライブに出演出来ることが決まりました。その後吉本の社員の方と少し話をして「芸名をどうする?」と聞かれ、特に深く考えていなかった私は本名で舞台に立つつもりでいましたが、その社員さんからの提案を受けて、ある芸名で初舞台に立つことになりました。次回いよいよ芸人デビューした時の話へと続きます。
じゃらん特集一覧