学生時代浪人時代

【早稲田での獲得単位はわずか8単位】芸人を夢見た経緯その⑤

ことりです。構成作家・脚本・イベント制作を生業としております。
私、ことりはかつて吉本興業で4年少々芸人やっておりました。「芸人」という仕事を意識して夢見るようになった経緯の5回目、大学入学後の話になります。
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大学生活開始

一浪して1995年4月早稲田大学、当時の理工学部電子通信学科というところに入学して大学生活が始まりました。早稲田の理工学部は明治通り沿いの西早稲田駅近く(当時はまだ駅が無かった)の「大久保キャンパス(現在は改称して西早稲田キャンパス)」という場所にあり、私は高田馬場駅と大久保キャンパスの両方に徒歩で行ける場所のマンションを借りて一人暮らしを始めました。

最初はキャンパスライフを楽しんでいました。

私が入学した学科は確か1学年120人くらいでそのうち女子は4、5人だったかと思います。早稲田は内部進学組(附属の高校からの進学組)ある程度の割合でいて、いわゆる“イケてる”グループで数少ない女子達ともすぐに仲良くなっていました。そんな彼ら彼女らを遠巻きに眺めつつ、同じような状況の一般入試で入ってきた男、数人と仲良くなって話をするようになりました。

バイトを始め、サークルにも入って・・・

入学してしばらくして近所のペッパーランチでバイトを始めました。サークルにも2つ入りました。一つは「ヤクルトスワローズを応援するサークル」でした。私は巨人ファンだったのですが、他の大学の学生もいて、女子も多くて楽しいと聞いて「まあ、いいか」と思い、クラスで仲良くなった奴に誘われてなんとなく入りました。もう1つは「早稲田大学寄席演劇研究会」というOBOGに山田邦子さんやオアシズのお二人(光浦靖子さん、大久保佳代子さん)等がいらっしゃる老舗のお笑いサークルで、前述のヤクルトを応援するサークルに誘ってくれたクラスで一番仲の良かった奴を誘って一緒に入りました。

勉強には全然身が入らず・・・

大学生になって当然勉強内容は高校時代とは全然違うものになります。【京大合格を蹴り、上京。早稲田へ】芸人を夢見た経緯その④にも書いたように1年生から専門分野=電子通信に関する授業があるという理由で早稲田を選んだわけですが、大学受験で燃え尽きたのか勉強には全然身が入りませんでした。

サークル活動は楽しんでいました。

ヤクルトを応援するサークルでは、夏休みの合宿、神宮球場での野球観戦などに参加しました。中でも一番の思い出は1995年ヤクルトVSオリックスの日本シリーズをライトスタンドで生で観戦したことです。試合前の練習でのレフト田口ライトイチローのキャッチボールの凄さ(その距離とコントロール、そしてイチローの背面キャッチ)は未だに鮮明に覚えています。また、たまたま観戦したのが第四戦で野球ファンの中では伝説となっている「小林-オマリーの14球」をリアルタイムで体感出来たのは貴重な経験です。

そしてお笑いサークルでは・・・

早稲田大学寄席演芸研究会(通称:ヨセケン)では、ネタをすることになります。自然の流れで、一緒に入ったクラスで一番仲が良かった奴とコンビを組み、浪人時代に考えた漫才【京大合格を蹴り、上京。早稲田へ】芸人を夢見た経緯その④参照)を少々ブラッシュアップしてヨセケンでのライブに臨むことになりました。それまで頭の中での想像・妄想でしか無かったネタを客前で披露出来るということでかなり興奮して臨んだ初めての舞台は・・・ややウケでした。爆笑は取れずでしたが何箇所かウケを取るところもあり自分的には反省点と共に手応えがあったのですが・・・

たった一度の舞台でコンビ解散

その一回の舞台終わりで相方が辞めると言い出し(私は本格的にコンビを続けたかったが、当時の相方にその熱は無かった)コンビは解消。仕方なくピンネタ(一人芸のネタ)を考えることになりました。

ピンネタでライブに出演するが・・・

二度目のヨセケンでのライブにそのピンネタで望みますが、ウケはあまり良くなく、反省会でサークルの先輩たちにダメ出しをされました。しかし自分の中でネタの内容には自信があったのでものすごく反抗的な態度を取り、かつ「アマチュアの中でやってても仕方が無い。お笑いやるんならプロを目指さないといけない」という思いを強くしてヨセケンには行かなくなりました。

1年の11月頃には・・・

11月頃、野球がシーズンオフになったためヤクルトを応援するサークルの活動は少なくなり、自然とフェードアウトする形でそのサークルには行かなくなりました。そして上記の通りヨセケンには行かなくなり、にも関わらず勉強には全然身が入らず、最初の中間試験を終えて8単位しか取得していない状態でした。

大学に行く意味を見出せなくなり・・・

サークルにも勉強にも全く興味が持てなくなり、私は大学へ行く意味を見出せなくなってしまいました。次第に徒歩で通える距離にあるにも関わらず大学に行くのが億劫になり、一回サボり二回サボり・・・やがて大学へ行かずバイト先のペッパーランチと自宅を往復するだけの日々が始まります。
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