芸人時代

【吉本興業】【泥の97年デビュー組】思うようにいかぬ舞台

ことりです。構成作家・脚本・イベント制作を生業としております。
1997年3月。当時渋谷にあった吉本の劇場「渋谷公園通り劇場」で行われていた新人が出演するライブ「渋谷新人計画スラッシュパイル」で私はピン芸人として初舞台を踏みました。
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散々な初舞台を終えて

結果は前途多難な芸人生活を思わせる、まさに散々な「滑り出し」でした。翌月も同じように、ネタ見せに合格すればライブに出られるということで、気持ちを切り替えて次に臨むことにしました。

帰りに事務所へ寄ると・・・

初舞台終わりの帰り際。劇場の事務所に寄ったところ、「ギャラを振り込むから、振込先の口座番号書いてハンコ押して今度持ってきて。」と言われ、紙を渡されました。ギャラが発生するということは、曲がりなりにも芸人になれたということになります。ちなみにそれ以降契約書など交わすことが無かったのは、先だっての吉本の騒動でも報道された通りです。
吉本のおおらかというか適当さを目の当たりにしたエピソードがあります。劇場の事務所からダウンタウンがNSC(吉本の養成所)に送った願書」が出てきたことがありました。しかも、お二人の写真付きでコピーではなく直筆の現物。「開運!なんでも鑑定団」で鑑定してもらいたいくらいのそんなお宝が、【処分するもの】の所に置かれ、危うく捨てられそうになってました。“それ絶対捨てたらアカンやつでしょ!”

何はともあれ芸人の仲間入りを果たす

NSCに行ってれば、入学金と授業料を払って1年間通って卒業してようやく芸人です。しかし私は、一銭もお金を払うことなくすんなりと芸人になることが出来ました。デビューしてからが芸歴開始となります。1996年にNSCに入学して97年春に卒業した東京NSC2期生と同期という扱いの、「アメトーーク!」で過去3回放送された“泥の97年デビュー組”になります。

空いてる時はしょっちゅう劇場へ

初舞台で自分のネタ、そして自分自身(のキャラクター)の受け入れられなさを痛感しました。「空いてる時は劇場に来てライブを見学して勉強してもいいから。」と言われていたので、とりあえず空いてる時は渋谷公園通り劇場に行くことに。特に若手がどんなネタをしていて、どんなネタが受けるのかを片っ端から見て勉強することにしました。
余談ですが、私が出演していた「渋谷新人計画スラッシュパイル」とは別の曜日に行われていたイベントで、「THIS」という130Rのお二人がMCの新人発掘ライブがありました。そのイベントを担当していた社員が、例の騒動で有名になった岡本さん(現吉本興業社長)でした。

その後も定期的に舞台に立つが・・・

初舞台が「木村大学院」でスベったということで、保育園からやり直しという意味も込められてなのか二回目は「木村保育園」として舞台に。その後毎回芸名が変わる芸人というよくわからないポジションで舞台に出ることになりました。毎回出番の時に劇場に行って、初めてその日の自分の芸名を知るというのが何回か続きました。

試行錯誤を繰り返すが

初舞台のネタは暗い男がボソボソ呟いてるようなネタで、到底若い女の子メインのお客さんに受け入れられる感じではありませんでした。以降、ハイテンションにノリツッコミしてみたり、学校の教師っぽく白衣を来てレクチャーするネタをやってみたり、試行錯誤を繰り返しましたが、思うような結果を出すことは出来ませんでした。

結果が出ない状態が続く

月に2回くらいのペースであった出番は、お客さんにアンケートを配って、面白いと思ったら○、普通なら△、面白くなかったら×を付けてもらうというシステムでした。○を2点、△を1点、×を0で計算し、それぞれ平均何点だったかが、毎回楽屋に張り出されていました。私はその結果が常に0点台、つまり半数以上の観客にNOを突きつけられる状況が続きました。

次第に芸人の数も増えてきて・・・

その間も、私が合格したのと同様にネタ見せを経て新人計画の舞台にデビューする芸人も増えてきました。そんな事情もあってか、年が明けて1998年から一番上のカテゴリー「バンダリズム」、二番目「スラッシュパイル」、一番下「ビッグバン」。3つのカテゴリーに芸人が分類される事になりました。結果を出せていなかった私は、一番下の「ビックバン」から上を目指すこととなります。次回へ続きます。
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