芸人時代

【ルミネtheよしもとオープン】一本の電話をきっかけに芸人引退

ことりです。構成作家・脚本・イベント制作を生業としております。
1998年渋谷公園通り劇場が閉館し、1999年銀座七丁目劇場」も閉館。東京吉本の劇場が一つも無くなって、私含めた若手芸人達がホームグラウンドを失うこととなりました。以降は2ヶ月に1度くらい、フジタヴァンテという代々木のイベントスペースで、芸人100組以上が1組1分から2分のネタをするのが、若手にとってほぼ唯一のネタを披露する機会になりました。
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2001年ルミネtheよしもとオープン

2001に東京吉本に大きな動きがありました。新宿駅隣接の商業ビルLUMINE2の7階に、吉本の劇場「ルミネtheよしもと」がオープンすることになりました。

ルミネ用オーディションを受けるも

「ルミネtheよしもと」出演に向けてのオーディションが開催されて、審査員となる構成作家の前でネタを披露するネタ見せを行いました。それまで渋谷公園通り劇場でお世話になっていた作家とは違う構成作家達の前でのネタ披露。当然今までとは違う見られ方をして当たり前なのに、ダメ出しされたことに対して「でもこのネタ受けたんですよ」と私はその場で反論してしまいました。まあ、当然そんな奴が出演出来るわけもなく不合格となりました。2回目のルミネ用オーディションはライブでのネタ披露。お客様さん投票によって順位が出ましたが、これもあまり芳しい結果ではありませんでした。

劇団の方では・・・

渋谷公園通り劇場に出演していた芸人達はユニットというか劇団を結成して、芝居を定期的に行っていました。
芝居での私の出番は限られたものでしたが、裏方としての役割もあるため稽古には基本毎回参加。公演が近づいてくるとチケ売りと称し、週に3日4日は渋谷に来て道行く人に声を掛けてチケットを手売り。そして毎週日曜日には代々木公園で路上ライブを行っていました。

精神的に不安定で・・・

その頃の私は、3桁あった貯金もほぼ底をつきました(【東京吉本】【2001年】芸歴5年目。貯金は底をつき親に泣かれる参照)。出番もあまり無い中で稽古に参加し、チケットを売り続けなければならないプレッシャーとストレス。このまま今の形を続けていていいのだろうか?という先行きの見えぬ不安を抱え、精神的に不安定で周りがよく見えなくなっていました。きっと周りに対してよく無い空気、雰囲気を醸し出していたのであろうと想像出来ます。そんな状況で、みんなで集まっての話し合いを一度法事でお休みしました。

ある日一本の電話が・・・

一回お休みした後、その次の話し合いが近々にあるというタイミングで、劇団の制作を担当してる方から電話がありました。「気を悪くしないで聞いて欲しいんだけど、実はこの前、君が参加してないミーティングの時に話題にもなって」と切り出され、劇団に自分が必要とされていないという趣旨の事を言われたのです。いわば首を宣告されることとなりました。

自分の存在場所

結局、自分の存在場所が欲しくてしがみついていたけど、劇団にはそこまで必要とされてなかったのです。むしろ雰囲気を悪くする存在になっていたことにその時気づきました。もちろん「ルミネtheよしもと」もオープンしたので、“ピン芸人として劇場で頑張れ”という意味合いもあっての宣告だったのでしょうが、自分の中でプツッと糸が切れた瞬間でした。

その電話をきっかけに

電話を終えた瞬間に、私は芸人を辞めることを決断しました。すぐにデビューの頃からお世話になっていた吉本の社員さんに電話して、「芸人を辞めます。」と伝えました。これからどうする気だと聞かれて、「構成作家になろうと思います。」と話して電話を切りました。何よりも“ホッとした”というのがその時の一番の感情でした。2001年の春頃芸人を引退する決断をした時の話でした。次回へ続きます。
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