芸人時代

【チケットを手売りする日々】渋谷公園通り劇場閉館後②

ことりです。44歳。2019年7月1日よりフリーランスとして活動中。

合同での芝居

1998年、吉本の劇場「渋谷公園通り劇場」が閉館となり渋谷公園通り劇場所属だった芸人は劇場でネタをする機会が減ってしまいました。また、閉館前から芸人数組が合同で芝居をする企画が始まり、「Happy Boys Bad Camp」というユニット名というか劇団名で芝居を定期的に打つようになりました。私はこの企画(劇団)には最初は携わっていなかったのですが、劇場が無くなりネタをする機会もほぼ無くなったため、手伝いをするようになりました。

チケットを手売り

渋谷公園通り劇場があった頃からチケットの手売り(自分が出演する公演のチケットを知り合い、時には通りすがりの人に売ったりして見に来てもらう)は各々の芸人が行っていました。
渋谷公園通り劇場はキャパが300以上あり、特に若手がこれを埋めるのは大変で、知り合いはもちろん劇場近辺で通りすがりの人に声を掛けて勧誘したり、時にはチケットをその場で買ってもらったりしていました。
芝居になって公演回数が増える、イコールチケットをたくさん売らなければならないという状態になっていて、私も公園通り劇場で仲良くなった同期や後輩と共にチケットの手売り、又の名をチケ売り(渋谷公園通り劇場の芸人が言い出して、そこから東西の若手に広がっていったワードと私は認識しております。)をするため劇場があった時と変わらず渋谷に来ていました。

出番もほぼ無いのにチケットを売る

ほぼほぼお手伝いで、本番に出るのは一瞬(エキストラ扱いで客席に背を向けて立ってるだけの出演ということもあった)だったのですが、それでも張り切って1200円のチケットを40〜50枚売ったりしていました。チケットを買ってくれた人に本番を観た後に「え?どこに出てたの?気づかなかった。」と言われたこともありました。もちそんそれは自覚していて情けなくもあり、悔しくもあったのですが、それでも拠り所となる劇場が無くなり、この劇団に属していないと何も無くなってしまうという不安もあって手伝いをしていました。チケットを売ることで「自分も出たい」というアピールする部分ももちろんあったかと思います。

次第に少し出番がもらえるようになり・・・

芝居も回数を重ねる中で(1999年から「velvet under//misin」へ名前を変え、参加メンバーも変わりました。)メインの役どころではありませんが、私も少し出番がもらえるようになり、見に来るお客さんにも認知され、なんとなく自分のキャラクターを印象づけられることが出来てきました。

公演が決まるとチケ売り

芝居の公演がが決まるとチケットが芸人に配布され、それを売るために渋谷に集まって主に女の子に声を掛けてチラシを渡し、ラッキーな場合はチケットをその場で買ってもらったり、電話番号を聞いて後日連絡を取って買ってもらったり、電話するうちに仲良くなる女の子がいたり、そんな日々が続きました。稽古期間も夕方から夜10時くらいまでチケ売りをして、それから移動して朝方まで稽古をしていました。

暑い日も寒い日もチケ売り

週に3回4回渋谷に来て、暑い日は汗だくにながら、寒い日は凍えながら声を掛けてチケ売りをしました。このゲーセンのトイレは洗面所にお湯が出る(寒い日には凍えた手をそこで温める)という無駄な知識を得るくらいしょっちゅう渋谷にいました。もちろん頑張って声を掛けても一枚もチケットが売れない日もあり、渡したチラシが捨てられていたり、チラシに電話番号書いて渡してたら知らない男から「俺の女に手出そうとしてんじゃねえ!今からそっち行くから待ってろ!」と電話が掛かって来たり、終電を逃して朝まで大戸屋で過ごしたり、チケットは買ってもらえなかったけどお金が無く空腹なのを見かねた女の子にカレーバーガーを奢ってもらったり、それでもめげずによくやっていたと改めて自分でも思います。

一番しんどい時期でした。

チケットを多く売ってももちろんギャラは変わりませんし(出演した分のギャラは支払われていました)、渋谷までの往復やご飯代など考えると出費もなかなかでした。正直いくらチケットを頑張って売っても、自分がこの劇団で芝居でメインを張ったり主役になることが無いのはわかっていて、あくまで“刺身のつま”的役割にしかならないのはわかっていましたが、それでも自分に出来ることで貢献しようと、そうすることで自分の道も開けるんじゃないかと必死にチケットを売っていました。振り返るとこの辺りが一番しんどい時期だったかもしれません。次回へ続きます。