芸人時代

【東京吉本】芸人時代。チケ売りでコミュ障気味の私に変化が

ことりです。構成作家・脚本・イベント制作を生業としております。
私、ことりはかつて東京の吉本興業で4年少々芸人やってまして、その頃の話をブログで書いてきました(→こちら参照)。初舞台から閉館(1998年秋頃閉館)までの1年半程、しょっちゅう通っていた、「渋谷公園通り劇場」での追加エピソードその②になります。
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結果が出せない日々が続き

1997年3月、当時渋谷にあった吉本の劇場「渋谷公園通り劇場」のネタ見せに合格した私は、「渋谷新人計画スラッシュパイル」でというライブでデビュー。以降何度か舞台に立ちますが、結果の出ない日々が続きました。

勝ち上がるしか無い状況に追い込まれ

1998年に入り、渋谷公園通り劇場の新人が出演するライブ「渋谷新人計画」は3つのカテゴリーに出演者が分類されました。私は一番下のランクの「ビックバン」に属することになりました。
尻に火が着いた状況に追い込まれたので、とにかく勝ち上がって上のカテゴリーに上がる方法を必死に考えました。

ネタに関して

ネタに関しては持ち時間が1分で、“つまらない”と思ったらお客さんが手を挙げる。それが5人以上になると強制終了というシステムでした。
  • 短い時間でどれだけ笑いを取れるか。いかにわかりやすく伝えられるか
  • 人を不快にさせるネタにしない。見てる人が迷ったり、頭にはてながつくようなネタにしない

という点を特に意識して、ネタを作るようになりました。

服装や見た目に関して

デビューの頃を振り返ると、上は古着で下は履き古したジーンズの“、小汚い暗い男”でした。「これでいい印象を与えるわけない」と自分でも思うほど。そんな印象を改め、極力不快さを与えず爽やかに見られるように意識しました。小綺麗なシャツを着たり、髪の毛の色も明るくしたり、見た目にも気を使うよう努めました。

チケットを手売り

渋谷公園通り劇場はキャパが300以上あり、特に若手がこれを埋めるのは大変でした。知り合いはもちろん、劇場近辺で通りすがりの人に声を掛けて勧誘したり、時にはチケットをその場で買ってもらったりしていました。

声を掛けてチラシを渡す。

当時はそんな言葉はありませんでしたが、私は、いわゆる“コミュ障”気味で、人と接するのは得意ではありませんでした。しかし、チケットを売ってお客さんを集めなければならないし、チケット販売のノルマがあるケースもあり、そんなことを言ってる場合ではありません。開き直って、芸人仲間と一緒に渋谷PARCO近辺やセンター街などで、「僕ら吉本で芸人やってるんですけど、お笑いとか興味ないですか?」と声を掛けて、チラシを渡していました。
今も若手の劇場はそういう傾向が強いと思いますが、当時は特に劇場にお笑いを見に来るのは10代20代の女性がほとんどでした。なので、女性の2人連れや3人連れなどをメインに声を掛けていました。

初対面の人へのアプローチで心がけた事

もちろん無視されることや、全く興味を持ってもらえないことも多々ありました。そんな中、足を止めてくれた人と会話を続けるには、どうすればいいかを試行錯誤。結果的に、以下のようなアプローチを心がけるようになりました。
  • 特に最初の入りは、明るく笑顔で声を掛ける。
  • 足を止めてくれたら、怪しまれないように、まずチラシを渡してライブの説明。
  • そこから日常会話に持ち込み、早めにタメ口でフレンドリーに。
  • 複数で声を掛けてボケる奴、それに突っ込む奴など役割分担。

チケ売りはほぼナンパに近い

チケ売り=チケットの手売りは渋谷公園通り劇場時代、そして閉館後も続けることになりました(→「渋谷の街でチケットを手売りする日々【東京吉本】劇場閉館後参照)。その場ですぐに買ってもらえることは少なく、連絡先を交換して、改めて電話してということが多かったです。そうなると、もちろんチケット買って見に来てもらうのが一番の目的ではありますが、女の子と仲良くなって「今度コンパしようよ」「今度遊ぼうよ」という機会も増えていきました。チケ売りしてるのか、ナンパしてるのかわからない状況になることも多々ありました。

チケ売り=渋谷で声を掛けた子と付き合うことになったり

チケ売りから連絡先を交換して、何度か連絡して会うことになって、結果付き合うことになった女の子もいました。中高男子校で地味な学生生活を送ってきた私にとっては、お金は無くとも売れて無くとも、楽しい部分があったのは間違いありません。部屋を片付けていたらその頃、20年以上前の写真が出てきました。髪の毛は2回ハイブリーチを入れた後に白を入れて、1回のカラーリングで4時間くらい時間を掛けてお金を掛けて、ある種モテようと必死でした。

フレンドリーに接することが出来るようになって

コミュ障気味で、人と接するのが苦手だった私が、必要に迫られて“チケ売り”というほぼナンパに近いことを繰り返す中で、若い女の子達とフレンドリーに接することが出来るようになりました。そのおかげもあってか、ネタの方向性を変えた成果もあってか、徐々にではありますが、ネタもウケるようになってきたのが、芸人2年目頃でした。
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