芸人時代

1997年〜1998年、東京【吉本興業】カオスなネタ見せ

ことりです。構成作家・脚本・イベント制作を生業としております。
私、ことりはかつて東京の吉本興業で4年少々芸人やってまして、その頃の話をブログで書いてきました(→こちら参照)。初舞台から閉館(1998年秋頃閉館)までの1年半程しょっちゅう通っていた、渋谷の公園通りを代々木公園方面に上がったところに当時あった劇場「渋谷公園通り劇場」でのエピソードを、追記したいと思います。
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スパルタな先輩

空いてる時は渋谷公園通り劇場に行って、若手がどんなネタをしていて、どんなネタが受けるのかを片っ端から見て勉強していました。その劇場には、“劇場の主”のようにいつも劇場にいる先輩がいました。その先輩がなかなかスパルタな方で、私がやらされたのは、“手押し車(両足を持ってもらった状態で手だけで前に進む筋トレの一つ)で、劇場から公園通りを上って代々木公園まで行き、劇場まで戻ってくる”という、意味も目的もよくわからないことくらいでした。

私以外の芸人で、こんなことをやられた奴も。

  • ただ交差点で信号待ちをしてるだけなのに、後ろからどつかれる。
  • のこぎりで切られる。ノコギリを“引く”ことはしないので血は出ないが、跡はつく。
  • ロープで縛られ劇場の天井から吊るされる。
  • 両手両足押さえて1時間くすぐり続けられる。これがやられた本人曰く一番辛かったそうです)
当時はこれが“芸人のノリ”というか、こういうもんだと思い、特に疑問も持たずにいましたが、今思えばなかなかイカれた環境でした。
後々、後輩達に“1997年〜1998年頃の東京吉本の芸人はめちゃくちゃな人が多かったらしい”“特に渋谷公園通り劇場はヤバかったらしい”と、ちょっとした伝説になっていたそうです。

カオスなネタ見せ

私がデビューしたての頃の渋谷公園通り劇場での出番は、事前のネタ見せに合格したら出演が可能になるというシステムでした(→【初めてのネタ見せ】【吉本興業】芸人を夢見た経緯その⑦参照)。
1997年〜1998年頃はまだ「M1グランプリ」も「爆笑オンエアバトル」も始まる前。テレビ番組「ボキャブラ天国」は人気を博していたものの、“お笑いブーム”という状況ではありませんでした。東京の地上波のテレビで、芸人のネタを見たりする機会はほとんどなかったと記憶しています。
まだYouTubeも存在せず、劇場に行かないと“ネタ”というものをちゃんと見る機会はほとんど無い、そんな状況の中・・・

ネタ見せに現れる不思議な人たち

毎月行われていた「ネタ見せ」には時に不思議な人が現れました。

ポカリがポカリ男

ピン(一人でネタをする)の人で、ポカリスエットの空き缶を舞台上に置き、それを自ら倒して「ポカリがポカリ」と言って、以降同じくらいのレベルのダジャレを繰り返す・・・。ただそれだけのネタをする人がいました。ネタ見せの審査員も、ただただ苦笑いしてました。

ただ普通に歌を歌う男

別のネタ見せの時に、ピン芸の人がステージに立ち、普通に自作の歌を歌い始めました。どこかでネタになるのかと思いきや、ただただずっと歌い続けます。審査員に「ここ歌手のオーディションじゃ無くて、芸人のオーディションだからね」と、途中で強制終了させられるました。

他のコンビのネタを完コピするコンビ

海砂利水魚(現:くりぃむしちゅー)の漫才のネタを、丸々完コピと言うかパクってネタ見せで披露するコンビもいました。当然審査員には一言「それ、海砂利水魚のネタまんまじゃん」と突っ込まれて終わりました。
よく言えばおおらかな時代で、当時の私は「とんでもない世界に飛び込んだなぁ」と思いながらも、その中で結果を出すべく日々奮闘していました。
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