芸人時代

【東京吉本】【2001年】芸歴5年目。貯金は底をつき親に泣かれる

ことりです。構成作家・脚本・イベント制作を生業としております。
2001年に入り、1997年から東京吉本で芸人を始めた私の芸歴は丸4年、5年目に差し掛かろうとしていました。

芸歴も5年目に差し掛かって

相変わらずネタを披露するのは路上ライブを除けば(【吉本】若手芸人【代々木公園で路上ライブ】1999〜2001参照)基本2ヶ月に1度くらいある芸人100組以上が1組1分から2分のネタを次々行うイベントのみでした。

変わらず続く劇団とチケ売り、そして路上ライブ

渋谷公園通り劇場(1998年閉館)に出演していた芸人達は、ユニットというか劇団を結成して芝居を定期的に行っていました(渋谷の街でチケットを手売りする日々【東京吉本】劇場閉館後参照)。芝居での私の出番は限られたものでしたが、裏方としての役割もあるため稽古には基本毎回参加。公演が近づいてくるとチケ売りと称し、週に3日4日は渋谷に来て道行く人に声を掛けてチケットを売る日々。また、毎週日曜日には代々木公園で路上ライブを行っていました。

バイトもあまりせずに

芸人だけでの収入では当然食えないので居酒屋、ファストフード店、ステーキ屋、薬局等転々と様々なバイトをしてきました(【芸人を辞め構成作家見習いに】思い出に残るアルバイト体験参照)。この頃にはチケ売りがあったのもあり、バイトはあまりせずたまに日雇いのバイトをする程度。どんどんお金がなくなっていきました。

もともと貯金が3桁あったのですが

もともと早稲田大学に行くために1995年に上京したものの、1年生の11月頃から大学に行かなくなってました。でも、それを親に言い出せずに(【芸人募集】芸人を夢見た経緯その⑥(1枚の張り紙で動き始める)参照)仕送りをもらいながらバイト三昧。自然とお金が貯まり、1997年には確か貯金が3桁に到達していました。しかし1997年の秋(3年の秋頃)に大学から成績が送られて来て、単位を8単位しか取っていないことが親に発覚します。

親に泣かれた日

「どういうことなの?」と問いただされて、実は大学に行かず吉本で芸人をやっていることをその時初めて打ち明けました。親は呆然として涙を流しました。その光景は未だに私の目に焼き付いています。実家に帰省した際に、何度か言い出す機会はあったにも関わらず言い出せなかった自分の意気地の無さ、仕送りをもらい続けていた厚顔無恥さに、情けなさと申し訳なさでいっぱいになりました。なぜ早く言えなかったのか、大学行きながら芸人にはなれなかったのかと今となっては思いますが、その時の自分は出来ませんでした。親不孝この上ない話で、言い訳のしようもありません。

その貯金もほぼ底をつき・・・

親を裏切るような形で芸人としてやってきましたが、5年目になっても売れる兆しは微塵もありません。劇団での活動では裏方の役割がメインで、あとは路上ライブ、そして2ヶ月に一度のネタライブ。この頃には3桁あった貯金もほぼ底をつき、このまま今の形を続けていていいのだろうか?と日々考えていました。先行きの見えぬ不安と、チケットを売り続けなければならないプレッシャーとストレスとで、精神的にやや不安定になっていた部分はあるかもしれません。そんな中、この年2001年東京吉本に大きな動きがありました。次回へ続きます。
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