芸人時代

【東京吉本】2001年【芸人引退】自分に足りなかったもの

ことりです。構成作家・脚本・イベント制作を生業としております。
1997年渋谷公園通り劇場のオーディションに合格した私は、東京吉本のピン芸人としての活動を開始しました。
劇場閉館後は、渋谷公園通り劇場出身の芸人達の劇団としての活動(渋谷の街でチケットを手売りする日々【東京吉本】劇場閉館後参照)及びその裏方としての役割を果たしながら、代々木公園で路上ライブを行いつつ、2ヶ月に1度くらい芸人100組以上が1組1分から2分のネタをするイベントに出演していました。
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芸人を4年少々で辞めました。

2001年に新宿駅隣接の商業ビルLUMINE2の7階に吉本興業の劇場「ルミネtheよしもと」がオープン後、しばらくしてからタイミングで芸人を辞めました。

箸にも棒にもかからずじまいでした。

結局芸人として1997年から2001年まで4年少々活動したものの、テレビに出たのは先輩のガレッジセールのお二人の番組にエキストラ的に出た程度、芸人としての収入が月に1万を超えたことは一度も無かったと思います。

芸人として足りなかったことを改めて分析

そんな自分に芸人として足りなかったことを改めて分析してみます。

3分以上のネタで笑いを取ることが出来なかった。

1分2分のネタで受けを取ることはあっても(100組以上が1,2分のネタを披露する中で最高で2位になったこともありました。
3分以上のネタで笑いを取ることが出来ませんでした。ルミネtheよしもとというキャパ400を超える空間で5分のネタをやって笑いを取る自分が想像出来なかった、出来るにしても相当時間が掛かりそうと思ったのが芸人を辞めた理由の一つでもありました。

演技力、キャラクターが無かった。

ピン芸人として4年以上やってきましたが、一人コントを成立させる程の演技力が無く(モノマネとかも全然出来ませんでした)、かと言って漫談で笑いを取る程の説得力だったりキャッチーなキャラクターもありませんでした。これも1分2分は持たせることが出来ても3分以上持たせられない要因だったかと思います。

低くて篭る声

低音でも麒麟川島のようないわゆる「いい声」で通る声であれば良かったんでしょうが、私の声は低くて篭るというか、どちらかと言うとねっとりとした声で聞いていて心地よい声では全然無く、なおかつ滑舌もいい方では無く、周りの芸人にも「無い声やな〜」と言われておりました。

スター性の無さ、人気が出るルックスでは無かった。

「かっこいい」という言葉や「キャー」という声援とは全く無縁で初舞台でのアンケートに「生理的に無理」などボロクソ書かれたりもしました、
もちろん自分なりに着る服を変えたり、髪の色を変えたり、ある程度改善しようとは試みましたが、自分にはスター性が無く人気者にはなれないという諦めに近い宿命みたいなものはずっと感じていました。

即興力も無い、可愛げも無い

大喜利などでその場で思いついたことで受けをとったり、イジられてその場で面白いリアクションしたりもあまり出来ず、「可愛がられる」才能も持ち合わせて無く先輩付き合いも得意ではありませんでした。

何よりも一番足りなかったのは・・・

何よりも足りなかったのは「自分は芸人として生きる」「やり続ける」という気持ち、覚悟、そして自分を信じる力がありませんでした。自分の現状と未来を天秤に掛けて可能性が薄いと諦めてしまいました、続ける才能がありませんでした。そこが一番欠けていました。でも仕方がありません。それが現実ですし、自分が選んだ道ですので。後悔はありません。

それでもお笑いが好きなんです。

芸人を辞めてもう20年近くも経つのに、それでも未だにお笑いが好きでバラエティ番組はよく見ますし、M-1グランプリなどの賞レースは固唾を吞んで見守っています。舞台に立ってヒリヒリした経験は、あのドキドキと高揚は忘れようにも忘れることが出来ません。そして芸人は諦めて一度はサラリーマンになったものの、どうしてもアイデアを出したり脚本台本を書いたり、自分の考えたことを形にしていくことを生業としていきたいという思いを抑えられず、2019年7月に独立しフリーランスの構成作家になりました。

こんな私に興味を持って頂いた方はお問い合わせよりご連絡くださいませ。

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