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ことりです。構成作家・脚本・イベント制作を生業としております。
1998年、吉本の劇場「渋谷公園通り劇場」が閉館。私を含む渋谷公園通り劇場所属だった芸人は、劇場でネタをする機会が減ってしまいました。
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合同での芝居
閉館前から芸人数組が合同で芝居をする企画が始まり、「Happy Boys Bad Camp」というユニット名というか劇団名で、芝居を定期的に打つようになりました。私はこの企画(劇団)には最初は携わっていなかったのですが、劇場が無くなりネタをする機会もほぼ無くなったため、手伝いをするようになりました。
チケットを手売り
渋谷公園通り劇場があった頃から手売りと称して、各々の芸人が自分が出演する公演のチケットを売っていました。
渋谷公園通り劇場はキャパが300以上あり、特に若手がこれを埋めるのは大変でした。知り合いはもちろん劇場近辺で通りすがりの人に声を掛けて勧誘したり、時にはチケットをその場で買ってもらったりしていました。
芝居を行うようになって公演回数が増える、イコールチケットをたくさん売らなければならないという状態になりました。公園通り劇場で仲良くなった同期や後輩たちと、劇場があった時と変わらず渋谷に集合。チケットの手売り、またの名をチケ売り(渋谷公園通り劇場の芸人が言い出して、そこから東西の若手に広がっていったワードと私は認識しております。)をしていました。
出番もほぼ無いのにチケットを売る
私の立場はほぼほぼお手伝いに近く、本番に出るのは一瞬。エキストラ扱いで、客席に背を向けて立ってるだけの出演という経験もしました。それでも張り切って、1200円のチケットを40〜50枚売ったりしていました。チケットを買ってくれた人から本番を観た後に、「え?どこに出てたの?気づかなかった。」と言われてしまうことも。もちそん、それは自覚していて情けなくもあり、悔しい思いをしていたのは間違いありません。それでも拠り所となる劇場が無くなり、この劇団に属していないと何も無くなってしまうという不安もあって、手伝っていたのです。チケットを売ることで、「自分も出たい」というアピールする部分も、もちろんあったと思います。
次第に少し出番がもらえるようになり・・・
公演を重ねる中で、1999年から「velvet under//misin」へ名前を変え、参加メンバーにも変化がありました。メインの役どころではありませんが、私も少し出番がもらえるようになったのです。見に来るお客さんにも認知され、なんとなく自分のキャラクターを印象づけられるようになったことを実感していました。
公演が決まるとチケ売り
芝居の公演がが決まると、チケットが芸人に配布されます。それを売るために渋谷に集まって、主に女の子に声を掛けてチラシを渡します。ラッキーな場合は、チケットをその場で買ってもらったり、電話番号を聞いて後日連絡を取って買ってもらったり、たまに電話するうちに仲良くなる女の子がいたり、そんな日々が続きました。稽古期間も夕方から夜10時くらいまでチケ売りをして、それから移動して朝方まで稽古をしていました。
暑い日も寒い日もチケ売り
週に3回4回渋谷に来て、暑い日は汗だくにながら寒い日は凍えながら、声を掛けてチケ売りをしました。このゲーセンのトイレは洗面所にお湯が出るから、寒い日には凍えた手をそこで温める、といった無駄な知識を得るくらい、しょっちゅう渋谷にいました。もちろん頑張って声を掛けても、一枚もチケットが売れない日もありました、渡したチラシが捨てられていたり、チラシに電話番号書いて渡してたら、知らない男から「俺の女に手出そうとしてんじゃねえ!今からそっち行くから待ってろ!」と電話が掛かって来たり。時には、終電を逃して朝まで大戸屋で過ごしたり。チケットは買ってもらえなかったけど、お金が無く空腹なのを見かねた女の子にカレーバーガーを奢ってもらったり。それでもめげずによくやっていたなと、改めて自分でも思います。
一番しんどい時期でした。
出演した分のギャラは支払われていましたが、チケットを多く売ったからといって、もちろんギャラは変わりません。渋谷までの往復やご飯代など考えると、出費もなかなかでした。正直いくらチケットを頑張って売っても、自分がこの劇団で芝居でメインを張ったり主役になることが無いのはわかって、あくまで“刺身のつま”的役割にしかならないのはわかっていました。それでも自分に出来ることで貢献しようと、そうすることで自分の道も開けるんじゃないかと、必死にチケットを売っていました。振り返るとこの辺りが、一番しんどい時期だったかもしれません。次回へ続きます。