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ことりです。構成作家・脚本・イベント制作を生業としております。
私、ことりはかつて東京の吉本興業で4年少々芸人やってまして、その頃の話をブログで書いてきました(→こちら参照)。今回は芸人でデビューしてすぐの時期、イタかった若かりし頃の話になります。
ことりのプロフィール/経歴はこちら
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デビューしたものの、結果が出ない日々
1997年3月。当時渋谷にあった吉本の劇場「渋谷公園通り劇場」で行われていた、新人が出演するライブ「渋谷新人計画スラッシュパイル」でピン芸人として初舞台を踏みました。結果は前途多難な芸人生活を思わせる、まさに散々な「滑り出し」でした。
毎回芸名が変わるという謎の設定
初舞台が「木村大学院」でスベったということで、保育園からやり直しという意味も込められてなのか二回目は「木村保育園」として舞台に。その後も、“毎回芸名が変わるピン芸人”というよくわからないポジションで、舞台に出ることになりました。
部屋を片付けてたら出てきた当時のノートを見ると、「木村保育園」の後は、「木村看護学校」→「木村英単語」→「木村マークシート」→「木村光線銃」→「木村ジュテーム」→「木村パール」→「木村ピーチ」→「木村メリーゴーランド」→「木村青りんご」→「木村V字バランス」→「木村口内炎」→「木村ジュエリー」という変遷でした。その後は本名で下の名前をカタカナにした「木村トモノリ」として舞台に出ることになりました。
自分のネタはオモロイと思い込んで舞台に立つが
自分が考えた「オモロイ」と思うネタが1ミリもウケず、若い女の子メインのお客さんに受け入れられる感じが全くしませんでした。以降ハイテンションにノリツッコミしてみたり、学校の教師っぽく白衣を来てレクチャーするネタをやってみたり。試行錯誤を繰り返しましたが、どれも空回りして上手くいきませんでした。
結果が出ない日々が続く
だいたい月に2回くらいのペースで出番がありました。そこでお客さんに配られるアンケートによる投票結果は(面白いと思ったら○、普通なら△、面白くなかったら×を付けるというシステムで、○を2点、△を1点、×を0で計算しそれぞれ平均何点だったかが張り出される)、常に0点台、つまり半数以上の観客にNOを突きつけられる状況が続きました。
ある日の舞台でのMCの先輩とのトークで
ある日の舞台、その日のネタもイマイチのウケで、ネタ終わりにそのライブのMCを務める先輩(お会いするのが2回目か3回目の方々でした)とトークで絡んだ時の話です。
ネタでスベったのを取り戻そうというのもあり
トークの流れでその日のネタの衣装の話になりました。そこで、吉本ではない他事務所の「ボキャブラ天国」に当時出ていた、とある先輩芸人のファッションを、「ああいうダサい感じには絶対なりたくない」的なニュアンスでディスったところ、MCの方が一瞬真顔で「そいつ、俺友達なんだけど」と言われてしまいました。「あ、やばい」と思ったものの時すでに遅し。「スベってる新人が、何を先輩の事ディスってんねん」という雰囲気で、そのトークは終了しました。
何をやっても空回り
大学に行かなくなり、ほぼ家とバイト先の往復しかして無かった状況から(【芸人募集】芸人を夢見た経緯その⑥(1枚の張り紙で動き始める)参照)、芸人になってみたものの、周りが見えずに前のめりに突っ走る日々。先輩とのコミュニケーションも上手く取れないまま、ネタはスベりトークで余計な事を言って、何やっても空回り。今思うとなかなか「イタイ」時代でした。次回、芸人時代のイタかった若かりし頃の話その②へ続きます。