芸人時代

【銀座七丁目劇場閉館】1999年【東京吉本】若手の劇場が無くなる

ことりです。構成作家・脚本・イベント制作を生業としております。
1999年には「銀座七丁目劇場」も閉館(渋谷公園通り劇場は1998年に閉館)。東京吉本の劇場が一つも無くなってしまい、私を含む当時の東京吉本の若手芸人たちは、ホームグラウンドを失うことになりました。
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東京吉本の若手の劇場が無くなる

2ヶ月に1度くらい「フジタヴァンテ」という、代々木のイベントスペースで芸人100組以上が1組1分から2分のネタをするというのが、ほぼ唯一のネタを披露する機会となりました。芸人はチケットを買い取って、知り合いなどに売って見に来てもらいます。出番の日に、次回分のチケット代金を吉本の社員に渡して買い取るシステムで、売れ残った分のチケット代は自腹でした。

劇団を続けていく中で

渋谷公園通り劇場に出演していた芸人達は、ユニットというか劇団を結成して芝居を定期的に行っていました(渋谷の街でチケットを手売りする日々【東京吉本】劇場閉館後参照)。チケ売りと称し、週に3日4日は渋谷に来て道行く人に声を掛けてチケットを売っていました。センター街、スペイン坂、公園通りなどを通ると今でも“この辺でチケ売りしてたな”と思い出すくらい、何度もその辺りをうろうろしていました。「僕ら吉本で芸人やってるんですけど」「お笑いとか興味ないですか?」とか言いながらチラシを配り、何とかお客さんを集め、無名の芸人達としては異例の数の集客(詳しい数は失念しましたが)となっていました。

継続して行くことの大変さ

芝居をやってお客さんをたくさん集め、実績を作ることによって道が開けるということを信じてやっていました。しかし“毎回チケットを売ってお客さんを集めなければならない”“でも知り合いに毎回来てもらうのは申し訳無い”“新規で来てくれる人を増やさないといけない”、というプレッシャーと、そのために行うチケ売りのしんどさが徐々にのしかかって来ていたのも事実です。

公演を重ねていく中での歪み

公演を重ねていくうちに、芸人それぞれの考えもばらつきが出てきているように私は感じていました。また、チケットを頑張って売らなくても出番がある芸人を、チケットをたくさん売っても出番が少ない私のような芸人がやっかんだりと、継続して行く中で、徐々に歪みが生じてきていました。

出番は少なくても稽古には参加

私の出番はあってもほんの少しで、正直何回かある稽古のうち自分の絡むシーンは基本1回2回でしたが、劇団の裏方の役割も兼ねていたため毎回稽古には参加していました。稽古中手持ち無沙汰で、路上ライブ(【吉本】若手芸人【代々木公園で路上ライブ】1999〜2001参照)のネタを考えたりして時間を過ごしていました。上記のように僻みやっかみも含めストレスが溜まっていた私は、稽古場にいながらマイナスな雰囲気を醸し出していたのは、当時は自覚はありませんでしたが、間違い無いと思います。

周りの芸人からの声

おそらくそれを感じていた周りの芸人からは、「ここ(劇団)にいてもお前は得しないから、辞めてピン芸で勝負した方がいいんじゃないか」とか「思い切って作家(構成作家/放送作家)になったら」などと言われたりもしましたが、それをすんなりと受け入れられない自分がいました。

数少ないネタのライブでは

2ヶ月に1度くらい行われていた東京の若手のライブは、お客さんの投票で順位を決めるシステムでした。劇団の活動をしていることによってある程度認知されてる有利さもあったかと思いますが、私は何度か投票結果で上位になることが出来ました。

良い結果が出た時もありました

ロバート、インパルス、森三中という東京NSC4期生含め、100組以上が1,2分のネタを披露する中で最高で2位になったこともありました。初舞台の頃のスベりっぷり、お客さんへの受け入れられなさを思えば随分と進歩があったかと思いつつも・・・。

4分,5分のネタが・・・

100組以上のうち、お客さん投票の上記確か8組が選抜されてのライブがあり、その時には4分5分のネタを披露することが出来ました。私は、確か2回か3回はこの上位8組に残ってネタをする機会を得ることができました。しかし、1分2分のネタでは受けを取ることが出来ても、この4分5分になるとうまく行かず、自分の力不足を感じていました。そんな芸人になって3年目4年目、1999年から2000年頃の話から次回へと続きます。

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