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ことりです。構成作家・脚本・イベント制作を生業としております。
1997年からピン芸人として活動を開始した私は、当時渋谷にあった吉本の劇場「渋谷公園通り劇場」で行われていた新人が出演するライブ「渋谷新人計画」に出演していました。
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同じ頃、銀座では・・・
同じ頃、銀座には「銀座七丁目劇場」という劇場がありました。極楽とんぼ、ロンドンブーツ1号2号、ココリコ、ペナルティ、 DonDokoDon、ダイノジと行った面々が定期的に出演。そして、東京NSC組も卒業したらこの劇場に出られるようになっていました。1期生の品川庄司、2期生のハローバイバイ、Bコース、佐久間一行等が出演していて、東京吉本の芸人のライブが割合的に多くを占めていました。
一方、渋谷公園通り劇場は・・・
一方、渋谷公園通り劇場は、私が出演していた「新人計画」と岡本さん(現、吉本興業社長)が手がけていた「THIS」が定期的に行われていました。
それ以外にも、大阪の2丁目劇場メンバーのライブも多く行われており、また時に「松尾スズキと間寛平のコラボ舞台」などを開催。事務所の枠を超えた“カルト芸人”を集めたライブが行われたり、ある時には「ゆず」がライブを行ったりする劇場でした。よく言えばバラエディーに富んだ、言い方を変えるとカオスな状況でした。
「新人計画」自体も「鳥肌実」「ブリーフ&トランクス」など後に他ジャンルで活躍する人達も出演していて、“なんでもあり”な状態でした。幅広いジャンルのものを生で間近で見て同じ空間を共有出来たのは、今思えば貴重な経験でした。
私が見た中で一番客席が湧いたシーン
私が目撃した中で一番客席が湧いた瞬間は、雨上がり決死隊、あさりど、アンバランスというイニシャルがAで始まる3組が定期的に行っていたライブ「AAA」のある回でした。あさりどのお二人がスケジュールの都合で出演出来ず、「その代わりにこの方が来てくれました」と言われ登場したのが当時同じ事務所でイニシャルが「A」の安室奈美恵でした。
安室奈美恵が渋谷公園通り劇場にサプライズで登場したのは1997年、「CAN YOU CELEBRATE?」が発売された年でした。
“草野球に代打イチロー”レベルのピンチヒッターがサプライズで舞台に登場。その瞬間、300人くらいのお客さんの「キャー」がしばらく止まらず、泣き出す人も続出。お笑いのライブでは見たことの無い光景が繰り広げられました。芸人とは違うスターのパワー、陳腐な言い方になりますがオーラみたいなものを、まざまざと見せつけられた瞬間でした。
芸人のノリも色々と経験して・・・
芸人が増え、私自身も劇場にいる時間が増えていくうちに芸人同士のノリみたいなものも増えていって、
- “手押し車(両足を持ってもらった状態で手だけで前に進む筋トレの一つ)”で劇場から公園通りを上って代々木公園まで行き劇場まで戻ってくる”という、特に意味も目的も無いことをさせられたり
- ある社員さんの思いつきで、別の芸人と二人で呼び出されラーメン屋、CoCo壱、別のラーメン屋と3件はしご。カメラも回ってないのに大食い対決したり
- 当時付き合っていた彼女が見に来ていた舞台でその事をドッキリ的に周りの芸人にイジられる。うまく返す事が出来ず、それが原因で別れる事になったり
その他諸事情でここでは書けないこと含め、色々と経験しました。
私が直接関係した話ではありませんが、ある先輩が手作りのアームレスリング台を劇場裏の駐車場に置き、腕相撲の練習をしたり後輩同士を戦わせたりしていました。ある日の本番前、その日初舞台の子がアームレスリング台で腕相撲をする事に。レフリー役の「レディー」で用意の態勢をとり、「ゴー」の声と共に力を入れた瞬間、「ボキッ」っというイヤな音が響きました。その子は腕を骨折し、初舞台に出れなくなってしまいました。誰が悪い訳でも無いのですが、このような悲劇含め劇場ではいろんな事が起きました。
ある関西の芸人さんが・・・
ある芸人さんが東京に引っ越して来た時のこと。何かの手違いですぐに部屋に入居出来ないということが発覚し、数日間渋谷公園通り劇場の楽屋で寝泊まりしていました。そんなある日、夕食代わりに数人でカセットコンロで焼肉パーティーを始めました。すると、非常ベルが鳴りスプリンクラーが作動。廊下と楽屋が水浸しになってしまいました。芸人が集まると、普通では起こり得ない事が色々と起きるものなのだと改めて感じました。
様々な事が起こった劇場が・・・
様々な事が起こった渋谷公園通り劇場ですが、1998年秋頃に閉館を余儀なくされます。せっかく夏頃に昇格したばかりの私含め、渋谷公園通り劇場所属の芸人はホームグラウンドを失う事となりました。次回へ続きます。