芸人時代

【1998年】【ビッグバン】ゴングショーを勝ち上がるために

ことりです。構成作家・脚本・イベント制作を生業としております。
1997年3月、私は当時渋谷にあった吉本の劇場「渋谷公園通り劇場」でピン芸人としてデビューしました。出番の度に毎回芸名が変わる芸人というよくわからないポジションなど、試行錯誤を繰り返しますが、思うような結果を出すことが出来ないまま1998年を迎えました。
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1998年渋谷公園通り劇場「ビッグバン」

1998年に入り、当時渋谷にあった吉本の劇場「渋谷公園通り劇場」で行われていた新人が出演するライブ「渋谷新人計画」。一番上のカテゴリー「バンダリズム」、二番目「スラッシュパイル」、一番下「ビッグバン」と、3つのカテゴリーに出演者が分類されました。それまで結果を出せていなかった私は、一番下の「ビックバン」から上を目指すことになりました。

「ビッグバン」のシステム

私が参加していた「ビッグバン」は、芸人の持ち時間は1分間で、ゴングショー形式と呼ばれる形式でした。
「ビッグバン」はネタの途中でも客席で観客が“つまらない”と思ったら手を挙げ、それが5人以上になるとその場で強制終了という方式でした。
“つまらない”の手が5人以上挙がらずに最後までネタを終えた時点で、客席にいる審査員の判断で合格したら1週勝ち抜け。不合格ならそのまま。時にはネタ途中でも審査員判断で強制終了の時も。5週勝ち抜くと一つ上のカテゴリーの「スラッシュパイル」に昇格できるというシステムになっていました。また、それまではネタ見せに合格して初めて舞台に立つことが出来ましたが、「ビックバン」は応募して当日劇場に来れば誰でも舞台に立つことが可能でした。

結果を出すしかない状況に追い込まれ

1997年の間は、自分のやりたい事・面白いと思うことと、ライブを見にくるお客さんが笑うこと・つまり受けることとのギャップを埋める事が出来ずにいました。試行錯誤してネタを作って披露するものの、なかなか結果が出せない状態。しかし、一番の下のカテゴリーになり、尻に火が着いた私は、とにかく勝ち上がって上のカテゴリーに上がる方法を必死に考えました。

勝ち上がるために心かげたこと

1分間しか持ち時間が無く、、“つまらない”の手が5人以上挙がったらその時点で終了なので
  • 「短い時間でどれだけ笑いを取れるか」「いかにわかりやすく伝えられるか」を優先してネタを作ることにしました。
  • 「人を不快にさせるネタにしない」「見てる人が迷ったり、頭にはてながつくようなネタにしない」を心がけてネタを作りました。
また、改めてデビューの頃を振り返ると、上は古着で下は履き古したジーンズの“小汚い暗い男”でした。「これでいい印象を与えるわけない」と自分で思い、小綺麗なシャツを着たり、髪の毛の色も明るくしたりと、極力不快さを与えないように見た目にも気を使うよう努めました。
前述のとおり毎回芸名が変わる芸人だった私は、出番の日に劇場に行って初めてその日の自分の芸名を知るという状態でした。十数回した時点で名付け親の吉本の社員さんが飽きて名付けるのを放棄したため、以降は本名で下の名前をカタカナにした「木村トモノリ」として舞台に出ることになりました。

上記のことを心かげた結果・・・

1週目合格、2週目合格とストレートに勝ち進み、4回合格したあとリーチが掛かった状態で二度程不合格になりました。当然4週合格から5週合格までのハードルは高めに設定されていたので、そこでしばし足踏み。なんとか乗り越え合格して5週勝ち抜き、無事に1つ上の「スラッシュパイル」に昇格というか復帰することになりました。それが確か1998年の夏頃だったと記憶しています。次回へ続きます。
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