学生時代浪人時代

【芸人募集】劇場の張り紙を見て応募。芸人を夢見た経緯その⑥

ことりです。構成作家・脚本・イベント制作を生業としております。
私、ことりはかつて吉本興業で4年少々芸人やっておりました。「芸人」という仕事を意識して夢見るようになった経緯の6回目、大学に行かなくなってからの話になります。
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バイトと家の往復生活

一浪して1995年早稲田大学、当時の理工学部電子通信学科というところに入学して大学生活を始めたにも関わらず、私は1年の11月頃から大学に行かなくなり、次第にバイト先のペッパーランチと家を往復するのみの生活になっていきました。

親には言い出せず・・・

親不孝なことこの上無い話ですが、大学に行かなくなったことを親には言い出せぬまま(早稲田は3年生までは自動的に進級出来るので私が言わない限り親には伝わらない)仕送りはもらい続け、週6回時には7回シフトを入れてバイトをしていたので、貯める意思は特に無かったのですがどんどん貯金が増えていきました。

冷めないお笑いへの夢

芸人を夢見た経緯その③」「その④」でも書いたように「芸人になる」可能性を意識して私は上京したわけですが、たまたま時を同じくして1995年吉本の養成所NSCが東京にも出来ました大学へ行かなくなって日々バイトをしながら「芸人になる」という思いは片隅にずっとあって、1996年の2期生募集のタイミングでNSCに行くことも考えはしましたが、吉本の芸人の「NSCには笑いと直接関係ないダンスの授業とかが結構ある。」「ネタ見せ以外の授業は意味無いと思って出席しなかった。」といった発言をテレビで聞いていたため、入学金と月謝払って養成所に行く価値あるかな?と二の足を踏みズルズルとフリーター生活を続けていました。

私生活は・・・

バイト先には割と馴染んでいて、たまにバイト仲間とボウリングに行ったりカラオケに行ったりはしていましたが、それ以外は基本1人で家にいて村上春樹」「筒井康隆」や「大槻ケンヂ」などの本を読みふけったり、カラオケに行く機会も多かったので流行りの曲のCDを借りたり、時に「暴力温泉芸者を聞いてとんがってるフリをしたり、TSUTAYAでダウンタウンのビデオを借りて繰り返し見たり、たまに渋谷などに出て特に目的も無くブラブラしたりと言う日々が続きました。

フリーター生活が続く中

1996年の秋頃、フリーター生活が1年くらい続く中で「このままじゃまずい」という思いは強くなり、「芸人になる」という夢は持ち続けていた私は、当時渋谷の公園通りを代々木公園方面に上がったところにあった吉本の劇場渋谷公園通り劇場(以降:公園通り劇場)に月に1,2回行って入り口のチラシなどを見て、どんなイベントをやっているのかをチェックするようになりました。
私は個人的にダウンタウンに影響を受け過ぎて(芸人になった経緯その①参照)、それ以降出てきた当時の若手にはそんなに興味を持てなかったのですが、関西ではダウンタウンを輩出した「心斎橋2丁目劇場」(以降:2丁目劇場)に出演していたメンバーが以降続々とテレビに出て人気になっていきました。非常にざっくりと言うと(私より詳しく語れる方が他にいらっしゃるとは思いますが)、まず吉本印天然素材(てんそ)」が人気となり、その中からいち早くナインティナインが全国的な売れっ子となりました。また時期を同じくして(人気になったのは“てんそ”が先でしたが)千原兄弟、ジャリズムといったメンバーが2丁目劇場で行っていた「WA CHA CHA LIVE」が盛り上がりを見せ、そのメンバーを中心に私が上京した年1995年に始まった「すんげー!Best10」というランキング形式のネタ番組が関西では人気となりました。

渋谷公園通り劇場の前を度々通るものの・・・

上記関西の若手芸人のライブ「WA CHA CHA LIVE」の出張版が公園通り劇場では定期的に行われており、何度か客席でライブを見てみようと思ってはいたのですが、客席は若い女の子ばかりで「そこに自分がいると浮くなあ」と躊躇して入らず終いでした。出演者をチェックし、劇場や周りにたむろするお客さんの雰囲気だけを見て通り過ぎるというのを何度か繰り返していました。
ちなみに当時東京には人力舎の養成所、スクールJCAは既にありましたし、他のプロダクションもオーディションは行っていましたが、私の中でお笑い=吉本という意識が強く他の事務所に行こうという気持ちは全くありませんでした。

1997年1枚の張り紙を見て動き始める

年が明けて1997年になり、「このままバイトと家の往復を繰り返してても仕方がない」と焦りも出てきた中、97年の1月のある日、定期的に訪れていた公園通り劇場の入り口に「芸人募集」という1枚の張り紙が貼ってありました。「これで芸人になれれば、養成所に行かなくて済む。この方法に掛けよう!」と決心した私は、張り紙に芸人志望者は履歴書を劇場宛に送るよう書いてあったので、すぐに履歴書を書き劇場に送りました。

なんの音沙汰の無いまま、しばらくして・・・

しばらく何の連絡もないまま「どうなったんだろう?書類で落とされることとかあるのか?」と不安に駆られながらバイトを続けていた、履歴書提出から一ヶ月ほど経った97年2月のある日のこと。バイト帰り深夜2時くらいに家の留守電のランプが光っていたので再生したところ明日ネタ見せがあるから、参加の意思があるなら劇場に来てください」え?明日?っていうかもう10時間後とかなんですけど。「急過ぎるわ!さすが吉本!」と思いながらも、大学時代にやったピンネタ(【早稲田での獲得単位は8単位】芸人を夢見た経緯その⑤参照)を練り直して、ほぼ寝ずに劇場でのネタ見せに向かいました。
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