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ことりです。構成作家・脚本・イベント制作を生業としております。
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1994年秋頃から
宅浪して、人との会話が減っていくうちに・・・
1994年秋頃から予備校を辞めて宅浪(自宅浪人)するようになった私は、起床して(昼前に起きることが多くなった)朝昼兼用のご飯を食べたら自宅のリビングで勉強し、夕飯を食べて再び勉強して、というサイクルが生活の基本となりました。週に2,3度はジムで体を動かしたり、唯一授業を受けていた「伝説の数学教師(【宅浪する中で想像と妄想が増えて】芸人を夢見た経緯その②参照)」の塾の自習室に行ったりはしていましたが、自宅から一歩も出ない日も増えて行きました。すると人との会話が減り内省的になっていたのが原因なのかわかりませんが、勉強の合間やベッドに入ってからいろんな想像、妄想をすることが増えてきました。
頭の中に浮かんできた漫才っぽいやりとり
何かきっかけがあったわけでは無いと思うのですが、ある時ベッドに入って寝つきが悪く、色々と妄想、想像してるうちに、「漫才のネタっぽいボケとツッコミのちょっとしたやりとり」が自分で一人二役する形で頭の中に浮かぶことがありました。特にそれをメモったりすることも無いまま(なので、残念ながらネタの内容は思い出せないのですが)また別の寝つきが悪い時に続きを考えて、という事をやっていました。
年が明けて1995年
二度目の受験が近づく頃には
そんな事を続けているうちに、年が変わった1995年春に二度目の大学受験する頃にはなんとなく、披露する予定も無いし、そもそも相方もいないにも関わらず、勝手にボケとツッコミを一人で考えた一本の漫才のネタが(一応オチまであったと記憶しております)が自分の頭の中で出来上がっていました。
同時に意識し始める「芸人」という仕事
それと同時に、同じく寝つきの悪い夜やふとした自宅での勉強時間の合間に、ぼんやりと「芸人」という仕事について意識するようになり始めます。その時に考えていたのは以下のような事でした。
- もし関西の大学に行って芸人になるとしたら、NSC(吉本の養成所)通ってデビューして、万が一売れたとしても東京に行ってもう一度売れないといけない。
- だったら東京の大学に行って、東京で吉本入った方が売れるとしても一回で済む。
親に冗談っぽく告げる
そんなありもしないことを妄想するようになり、二、三回冗談ぽく「今度受験して大学全部落ちたらNSC行くわ!」と親に言ったことは記憶しております。親は冗談と捉えたようですが、実は私自身はある程度本気で考えていました。
1995年春、二度目の受験
阪神淡路大震災で2週間断水
1月14日・15日に終えたセンター試験の自己採点を行い、去年よりも高い得点だったため少し安心して寝ていた1月17日早朝、「阪神淡路大震災」が起きました。震源に近い兵庫県の宝塚市にあった自宅は、台所の食器棚が倒れ食器が散乱し、リビングの窓は割れ、ガレージの屋根は潰れ車はペシャンコにはなりましたが、ガレージ以外は損傷もそこまで酷くなく自宅は住める状態だったので、余震に怯えながら断水で水が使えず不自由な中、2次試験に向けての勉強を自宅で続けました。
二度目は滑り止めも含め複数の大学を受験
二度目の受験も本命は前年同様京都大学でした。ただし二浪はしたく無いし親にもこれ以上負担をかけたくなかったので、志望校を増やして京都大学、慶應義塾大学、早稲田大学、同志社大学、立命館大学を受けることにしました。
余談ですが、防衛大学から「模擬試験替わりでいいから受験しないか(家まで迎えに上がりますのでとも言われました)」と誘いの電話があり、1994年の確か11月頃「(防衛大学に)行く気は無いけど。まあいっか」と一次試験を受けることにしました。試験日の朝、自宅前で待ってると一人の青年が運転するスカイラインGT-Rが玄関の前に停まりました。受験生に似つかわしく無い“いかつい”スポーツカーに乗り込むと、途中で何人か同じような受験生が乗って来て、見知らぬ者同士会話も特に無いままGT-Rは自衛隊の伊丹駐屯地に到着しました。教室で試験開始を待っていると、部屋に入ってきた試験官はチョビ髭のおじさんでした。その時の感覚を今の言葉で表すと「受験のお迎えGT-R、試験官チョビ髭って、自衛隊はクセがスゴイ!」。結果的に試験には合格しましたが、あくまで模試代わりだったので二次試験は辞退しました。
試験の結果・・・
二度目の受験で志望校を増やし、今回はもちろん本命の大学はあるが、「合格したうちのどこかの大学に行く。全て落ちたらNSC(吉本の養成所)に行くことも考える。二浪はしない」と自分の中で意思は固まりました。試験の結果は・・・??