学生時代浪人時代

【東京ギャグコレクション】イタかった若かりし頃。芸人を酷評

ことりです。構成作家・脚本・イベント制作を生業としております。
私、ことりはかつて吉本興業4年少々芸人やってまして「芸人」という仕事を意識して夢見るようになった経緯を7回に分けてこのブログで書いてきました(→こちら参照)。今度は芸人になって鼻っ柱をへし折られる前の、根拠も無く自信を持っていた、イタかった若かりし頃の話第二弾になります。
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イタかった大学時代の自分

私は一浪していくつかの大学に合格した中から早稲田を選び(→【京大合格を蹴り、上京。早稲田へ】芸人を夢見た経緯その④参照)、1995年4月早稲田の当時の理工学部電子通信学科というところに入学して大学生活が始まりました。

ヤクルトを応援するサークルに入る。

早稲田には種々雑多、様々なサークルがあり、その中から「ヤクルトスワローズ」を応援するサークルに入りました。1995年ヤクルトVSオリックスの日本シリーズをライトスタンドで生で観戦し、イチロー選手のプレイをリアルタイムで体感出来たのは貴重な経験です(→詳しくは「【早稲田での獲得単位はわずか8単位】芸人を夢見た経緯その⑤参照)。

早稲田大学寄席演劇研究会に入る。

私はなんとなくではありますが、浪人時代に仕事として「芸人」というものを意識するようになっていました(→「【大学全部落ちたらNSC行くわ!】芸人を夢見た経緯その③参照)。それもあって、クラスで一番仲の良かった奴(ヤクルトスワローズを応援するサークルに誘ってくれた奴)を誘って早稲田大学寄席演芸研究会(通称「ヨセケン」)というお笑いサークルにも入りました。

自分がオモロイと思い込み尖りまくる

ヨセケンではネタをすることになります。自然の流れで一緒に入った仲いい奴とコンビを組み、浪人時代に考えた漫才を少々改良してのライブに臨むことになりました。初めての舞台は・・・「ややウケ」でした。爆笑は取れずでしたが、何箇所かウケを取るところもあり自分的には反省点と共に手応えがあったのですが・・・

先輩からのダメ出しを受けて

舞台が終わってサークルの先輩からダメ出しがありました。自分としてはネタに関して絶対的に自信があり、ややウケだったのは「客がついてこれなかった」くらいの感覚でいた中で「お客さんは女性が多いから、下ネタはちょっと・・・」といった、今思えば至極真っ当な指摘でした。

それに対して

お前らみたいなもんに(相手は先輩なのに)アレコレ言われたくない。お前らに俺の笑いわかんのか?」と生意気極まりないことを思い、ちょっと俯いたまま目線はダメ出しをしてくれてる先輩にロックオンして睨みつけるという、サークルに入りたての1年生にはあるまじきとんでもない態度を取っていました。

サークルの一行でお笑いライブを観に

お笑いサークルにいたのは結局半年少々だったのですが、サークルの活動の一環でプロの芸人のライブを見に行く機会がありました。ボキャブラ天国全盛期で、爆笑問題、海砂利水魚(現、くりぃむしちゅー)、ネプチューンなど錚々たる面々が出演していた『東京ギャグコレクション』というライブでした。私にとっても当時関東の芸人のライブを生で見るのは初めての経験で、どんなもんかお手並み拝見な気持ちでサークルの連中と一緒にライブを観ました。終演後出演者それぞれの感想をアンケートに記入することになったのですが・・・

上から目線でボロクソな意見を書きまくる。

尖りまくっていた私は素人の分際で、しかもサークルとは言えお笑いを齧っているにも関わらず、自分を「オモロイ」と思い込んでいるイタイ奴丸出しでした。「オモロナイ」と思ったコンビに対して、本人が見たら絶対凹むようなボロクソな意見をびっしり記入。自分の名前や住所もきちんと書いて身元を明かした上で、上から目線の生意気なことをよくやったなと改めて思います。次回芸人になってからの「イタかった若かりし頃の話」になります。
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